【若い力90号】1868年(慶応3年) 神戸港開港

神戸港の変遷

1868年(慶応3年) 神戸港開港

神戸港が開港されたのは外国からの強い要求によるものだった。当時、徳川幕府は鎖国政策をとっていたが、1858年(安政5年)、外国と「日米修好条約」「安政5カ国条約」を結び兵庫(神戸港)を含めた7港が開港されることになる。その後の情勢の変化で開港の5年延期が決まったが、その後も開国反対の攘夷運動が高まり、朝廷も開港に反対した。そして、1863年(文久3年)、イギリス、アメリカなどの4カ国と長州藩との間で下関戦争が勃発。長州藩が敗れたため、開港の動きは加速する。イギリスは「幕府が兵庫開港を速やかに許可しなければ幕府との交渉はせず、天皇と直接交渉する」と兵庫の開港を強く迫り、やむなく幕府は朝廷の勅許なしの状態で開港を約束した。しかし、その後も朝廷は勅許を与えなかったため、幕府は朝廷の許可がないにもかかわらず外国に対しては朝廷の許可を得たと嘘を言う異常状態に。その後、約束の開港予定日の約半年前にようやく勅許が得られ、なんとか無事、兵庫は開港された。

 

1908年 ブラジルへの最初の移民船
「笠戸丸」が出航

日本はかつてブラジルに対して多くの移住者を排出したのだが、実は多くの移住者は神戸港からブラジルに向かっている。最初のブラジル移民船である「笠戸丸」は、コーヒー農園の仕事をするために781人が神戸港から旅立った。1928年(昭和41年)には国立移民収容所が神戸にでき、移民者が渡航前にブラジルの農業やポルトガル語を学んだり、健康診断を受ける施設として利用された。ここでは、当時日本では珍しかった水洗トイレで移住者が戸惑わないよう水洗トイレが整備されていた。

 

1967年 コンテナ専用船
「HAWAIIAN PLANTER」が日本初寄港

1973年にはニューヨーク、ロッテルダムに次ぐ世界3位のコンテナ貨物量となり、国内1位を誇っていた。阪神・淡路大震災によりコンテナ貨物量が激減するも、2015年には名古屋港を抜いて、東京、横浜に次ぎ3位に。しかし、中国勢などにその地位を奪われつつあり、開港150年を契機として更なる躍進が望まれるところだ。

 

1872年(明治5年)頃の神戸港

神戸港は「兵庫」の名で1968年(慶応3年)に開港。正式に「神戸港」となったのは1892年(明治25年)である。図では旧生田川が埋め立てられているのがわかるが、これは1871年(明治4年)に生田川の付替工事に着手し、同年、新生田川が完成されたためである。「鯉川」と書かれているは元町地区の「鯉川筋」の「鯉川」と同じ。同じく宇治川は「メルカロード宇治川」商店街の「宇治川」である。現在はご存知のとおり鯉川、宇治川下流は図のような状態でなく、地下水路になっている。

 

1917年(大正6年)の神戸港

図にある兵庫運河は1896年(明治29年)に起工され1899年(明治32年)に開通。大正から昭和初期には一大商工業地域の運河としてにぎわっていたが、現在は川崎重工などの企業が利用するにとどまっている。また「新湊川」とあるが湊川は1897年(明治30年)付替工事に着工し1901年(明治34年)に完成されたものである。神戸港の築港(船舶停泊のための整備)に着手したのは1906年(明治39年)。図の時期である1917年(大正6年)には第1期工事の突堤の供用が開始された。

 

1970年(昭和45年)の神戸港

1963年(昭和38年)、現在も神戸のシンボルである神戸ポートタワーが完成する。1966年(昭和41年)にはポートアイランドに着工し、1982年(昭和57年)完成した。ポートアイランドがE字形になっているのは、大きなコンテナ専用船を停泊させることのできる埠頭を作るという大きな目的があったためである。ポートアイランドは竣工当時、世界最大の人工島で、六甲山の土で埋め立てられて造られた。また、採掘された土地の跡地で須磨ニュータウンが開発された。このような海上に新たな人工島を造り、埋立用土砂採取跡地を住宅地にするという手法は、「一石二鳥」であると世界的に評価された。六甲アイランドはポートアイランドに後れること6年、1972年(昭和47年)に着工し、1981年(昭和56年)に完成した。

 

 

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